2013年1月15日火曜日

体罰と暴力の境目。

大阪市立桜宮高校の男子生徒が部活動の顧問から体罰を受けていた問題について、多くのメディアが連日取り上げている。男子高校生はなぜ自殺しなくてはならなかったのか?あまりに悲惨である。彼には夢もあったろう、やりたいこと、できることがたくさんあったはず、可能性がたくさんあったはずだが「自殺」によってそれら全て「無」となった。自殺の原因のひとつとしてバスケットボール部顧問からの「体罰」が挙げられる。今、連日メディアが取り上げている内容を見ていると「体罰は必要か?」や「体罰は必要悪」などと言われている。そもそもこれは「体罰」なのか?私にはただの「暴力」にしか見えない。バスケットボール部顧問という地位を利用し、自分の地位と名誉を守るためなら手段は選ばない極めて狡猾な思考を持った人間による暴力の行使。それが常態化していたことを知っていたにも関わらず何もしない、しようとしない周辺の下劣な大人たち。「彼」はそういった「大人」たちによって「殺された」と言っても過言ではない。「教育」とは人間を殺すためにあるものか?「教育のためなら・・・」という大義名分のもとに人間は殺されるのか?このようなことが罷り通るとすれば不条理でどうしようもないとしか言えない。私も学生時代、「殴られた」ことは何回もあったし、それを「体罰」というなら、十分に「体罰」と言えるだろう。しかし、私が受けてきた「体罰」は私にとってはプラスの方向へ向かったと言える。未熟な精神と判断力の矯正には、どうしても「体罰」という極めて原始的で強引な力を行使しなくてはならない場合も存在する。しかし、それはあくまでも最終手段であり、あらゆる手段をもってしても事態が解決しない場合にのみ適用されるべきものである。体罰を100%肯定するつもりはない。体罰なくしてよりよき人格を形成することができればそれにこしたことはない。しかし、近代教育の確立に伴い「体罰」は「教育と常にあり」という状況が生まれ、それは今日においても通用するものとなっている。今回の事件を見ているとこの顧問は先に体罰ありきの教育方針があり、学生の精神の矯正には体罰こそ最も効果的であるという安易な考え、教育者としてありえない極めて狭量な考えのもとに「教育」を実施していたと思うと背筋が凍る。教育者とて人間であり、完全でないことは明白である。どのような優れた教師であってもある種教条主義的になることはあり得る。多角的に物事を見て、客観的に分析する能力がなければ、その教条主義に飲み込まれ、自身も気づくことはない。このバスケットボール部顧問にはこのような教育者として必要である多角的に物事を見て。客観的に分析する能力が欠如していると考えられるのではないか。少なくとも学生を「自殺」に追い込むような「教育」を実施する人間を「教育者」とは言えないし、言ってはならない。最悪の結果を招いたのだから然るべき処置を行わなければならない。このような「体罰の常態化」を看過している状況、スポーツ教育における「体罰」の意義、など今回の事件を通じて多くの教育が抱える諸問題を解決しなければ、言葉は悪いが亡くなった学生の意義がなくなる。これは重要な問題であるいう認識をあらゆる教育者は認識せねばならないだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿