2013年1月15日火曜日

ホーキング、宇宙を語る!!!

「ホーキング、宇宙を語る」は今から約20年前に出版された本で、数式を一切使わずに最新(当時としては)の宇宙論を一般人にわかりやすく紹介したこの本はとても有名であり、今更紹介するほどでもないかもしれないないが、私の好きな一冊であるこの本を紹介せずして何とする!と思ったので紹介したいと思う。スティーヴン・W・ホーキング博士は英国の著名な宇宙物理学者で、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学にて宇宙論、物理学を専攻し、早くから理論物理学者の第一人者として認識されるようなり、史上最年少32歳でイギリス王立協会会員、そしてかの万有引力の法則の発見者として有名であるアイザック・ニュートンも就いたケンブリッジ大学ルーカス記念講座教授に選出されている。21歳の時に筋萎縮性側索硬化症になり、学者としての道が閉ざされようとしていたにも関わらず、彼は不屈の精神と我々常人には考えられないほどのポジティブシンキングを持っていたため研究を続ける事ができた。病気の進行に伴い周囲とのコミュニケーションが徐々に取れなくなり、ペンを持って計算することも不可能になっていくという極めて困難な状況にも関わらず、ホーキング輻射などブラックホールに関する研究を続け、不滅の業績を残している。その輝かしい業績からアインシュタイン以来の大天才とも呼ばれる。そんな彼が難しい宇宙に関する理論、世界観を一般人にも平易に理解できるように書いたこの本は約270ページと薄く、且つ扱っている内容は高度だが、決して妥協はしていないという今でこそ一般向けの科学啓蒙書は数多くあれどこれほどまでにレベルの高い本はなかなか存在しない。いわば先駆的存在とも言える科学啓蒙書がこの本である。ホーキング博士がこの本を出版したことによって多額の医療費を支払うことができたという極めて現実的な側面があるが、我々を普段の日常からかけ離れた世界へ招待してくれるこの本は現代の名著である。電弱統一理論でノーベル物理学賞を受賞したワインバーグ博士の「宇宙創世はじめの三分間」など宇宙論に関する一般向けの本はあるが、こちらはややデータが古い。多少加筆はしているが。ブライアン・グリーンやリサ・ランドールの本も有名で後者の本「ワープする次元」は大学で教科書として使用されている。さて、ホーキング博士の話に戻るが、この「宇宙を語る」はアインシュタインの一般相対性理論、量子力学、素粒子物理学、天文物理学などちゃんと順を追って説明している。この道程なくしてホーキング自身の理論を理解しようとするとやはり難しいだろう。この本にはホーキングのブラックホールに関する研究成果がさらりと書いてあるのでそこは要注意である。この本は単なる科学の本という領域に収まらない。結論ー人間理性の勝利ーで書かれていること、既存の哲学の限界、そしてホーキング博士がこの後生涯ある意味で「対決」することとなる「神」についても言及している。翻訳も非常に優れており、まだ読んだことがないという人は是非読んでもらいたい。また、ホーキング博士は他にも何冊もの本を書いているのでそちらも読んでもらいたい

体罰と暴力の境目。

大阪市立桜宮高校の男子生徒が部活動の顧問から体罰を受けていた問題について、多くのメディアが連日取り上げている。男子高校生はなぜ自殺しなくてはならなかったのか?あまりに悲惨である。彼には夢もあったろう、やりたいこと、できることがたくさんあったはず、可能性がたくさんあったはずだが「自殺」によってそれら全て「無」となった。自殺の原因のひとつとしてバスケットボール部顧問からの「体罰」が挙げられる。今、連日メディアが取り上げている内容を見ていると「体罰は必要か?」や「体罰は必要悪」などと言われている。そもそもこれは「体罰」なのか?私にはただの「暴力」にしか見えない。バスケットボール部顧問という地位を利用し、自分の地位と名誉を守るためなら手段は選ばない極めて狡猾な思考を持った人間による暴力の行使。それが常態化していたことを知っていたにも関わらず何もしない、しようとしない周辺の下劣な大人たち。「彼」はそういった「大人」たちによって「殺された」と言っても過言ではない。「教育」とは人間を殺すためにあるものか?「教育のためなら・・・」という大義名分のもとに人間は殺されるのか?このようなことが罷り通るとすれば不条理でどうしようもないとしか言えない。私も学生時代、「殴られた」ことは何回もあったし、それを「体罰」というなら、十分に「体罰」と言えるだろう。しかし、私が受けてきた「体罰」は私にとってはプラスの方向へ向かったと言える。未熟な精神と判断力の矯正には、どうしても「体罰」という極めて原始的で強引な力を行使しなくてはならない場合も存在する。しかし、それはあくまでも最終手段であり、あらゆる手段をもってしても事態が解決しない場合にのみ適用されるべきものである。体罰を100%肯定するつもりはない。体罰なくしてよりよき人格を形成することができればそれにこしたことはない。しかし、近代教育の確立に伴い「体罰」は「教育と常にあり」という状況が生まれ、それは今日においても通用するものとなっている。今回の事件を見ているとこの顧問は先に体罰ありきの教育方針があり、学生の精神の矯正には体罰こそ最も効果的であるという安易な考え、教育者としてありえない極めて狭量な考えのもとに「教育」を実施していたと思うと背筋が凍る。教育者とて人間であり、完全でないことは明白である。どのような優れた教師であってもある種教条主義的になることはあり得る。多角的に物事を見て、客観的に分析する能力がなければ、その教条主義に飲み込まれ、自身も気づくことはない。このバスケットボール部顧問にはこのような教育者として必要である多角的に物事を見て。客観的に分析する能力が欠如していると考えられるのではないか。少なくとも学生を「自殺」に追い込むような「教育」を実施する人間を「教育者」とは言えないし、言ってはならない。最悪の結果を招いたのだから然るべき処置を行わなければならない。このような「体罰の常態化」を看過している状況、スポーツ教育における「体罰」の意義、など今回の事件を通じて多くの教育が抱える諸問題を解決しなければ、言葉は悪いが亡くなった学生の意義がなくなる。これは重要な問題であるいう認識をあらゆる教育者は認識せねばならないだろう。

原子爆弾は使われない兵器か?

核兵器。人類が保有する最強にして最悪の兵器。実践使用から68年が経過しようとしている。第二次世界大戦終結後、ソビエト連邦とアメリカとの間で起きた「冷戦」という極めて緊張度の高い政治情勢の中で核兵器の実験は数多く実施されたが実戦使用までには至らなかった。米ソ両大国(後に英国、仏国、中華人民共和国なども核兵器を保有)が核実験を頻繁に実施することは相手に対する「牽制」であり、実戦使用の段階まで進むことがなかった。核兵器は「使われない兵器」として存在し、技術の進歩に伴い小型化、ミサイル等に搭載、その威力は増大していった。広島、長崎で使用されたウラニウム型原子爆弾とプルトニウム型原子爆弾などの「核分裂」を利用した核兵器だけでなく、「核融合」を利用した水素爆弾、熱核融合爆弾や爆発の威力そのものは小さいが人体への殺傷能力が極めて高い中性子爆弾など、核兵器のバリエーションは時代の経過とともに大きく変わっていった。ソビエト連邦崩壊に伴い東西冷戦は終結、1990年代はソビエト連邦の後継国であるロシアの政治、経済の不安定状況の中多くの核兵器開発に携わってきた科学者、技術者が他国に亡命、あるいはロシアが保有していた放射性物質、核兵器に使用されるパーツがブラックマーケットで売買されるなど、核の拡散の時代と言える。2000年代に入りアメリカで起きた9.11テロを境に「国家対国家」というある種伝統的な戦争形態は形骸化し、サミュエル・ハンティントンが「文明の衝突」で予測したフォルトラインでの紛争とイスラム文明対キリスト文明の衝突が現実のものとなった。一方で大国間の戦争は「沈静化」している。これは第三国に小規模戦争を行わせ、その小国に銃や爆弾、戦車、戦闘機などの兵器を売りつけるという「資本主義的戦争」とでも言うべき新しいマーケットを開拓したことが「沈静化」の原因の一つとして考えられる。核兵器は現代において絶対に使われない兵器であろうか?私はそう遠くない時代に核兵器は「使用される」と考える。有力なのはインド・パキスタン両国間で行われる限定的核戦争であろう。しかし、これは多くの政治学者が指摘しているので新鮮味はない。あるいは北朝鮮が突如某国に対して核攻撃をするというシナリオも十分にあり得る。特に北朝鮮は政治体制が金正恩体制に移行したばかりで、その体制基盤は決して盤石なものとは言えず、いつ「暴発」してもおかしくない。この朝鮮動乱が勃発した場合、アメリカ対中国による本格的な軍事衝突も誘発しかねない。その時、核兵器は使われない兵器として存在するだろうか?あくまでも最悪のシナリオでシュミレーションしているが、現実の国際情勢は更に複雑であり、カオスである。我々が予測しえない事態が勃発することはあり得る。しかし、歴史を振り返ると数々の国際問題の前には「兆候」が必ず存在する。この兆候を見分けることが重要であるが、人はそんなに賢くないことを歴史は今まで証明してきた。私達はこれからも「証明」し続けるだろう。人類は「賢明」であり、「愚鈍」な存在であることを。

2013年1月7日月曜日

『宗教と科学』について思うこと。

2013年を迎えた。心配されていたマヤの終末予言は大外れ、世界は滅亡の危機を無事乗り切ることができた。(マルチバースに存在するもう一つの「地球」は滅亡したかもしれないが) このような「予言」は信じていませんでしたが、ひょっとしたらひょっとする可能性も0%ではないので、内心「何か起こらないかなwkwk」と思っていたことをここに正直に告白する。 小さい頃からオカルトや超常現象、UFO、UMA,など世界中で起きた、あるいは起きている不思議な事が大好きな人間。 自分の頭の中にある「非科学的」なるものを排除するのは至難の業。 いくら物理学や数学の教育を受けてもそういった道、ここではオカルトの道とでも言うが、そういった道を選択し、歩んでしまう人もたくさんいる。オウム真理教に入信した信者の中には東大や京大などの理学部、工学部出身者や、大学院の博士課程に在籍していたものも多くいた。 一連のオウム事件が収束しつつあるなかで、現代の科学万能主義に対する批判は至る所で見つけることができる。 同時に宗教の在り方、現代において「宗教」はどのように存在するべきか、宗教と現代人がどのようにシンクロすべきかなど、宗教の意味を問うものも書籍が大量に出回ってる。 宗教と科学は相容れないものとして世間では認識されているように見える。しかし、科学が行き着く先にあるのは、「宗教的な答え」ではないかと思う。2つの考えの経路は異なるものの、終着点には何らかの共通点があると漠然とが考える。全知全能の「神」の存在はゲーデルの不完全性定理によって「存在しない」ことが論理的帰結として導出されたわけだが、我々人間の論理的思考には限界が存在していること、そして人間はその限界に気づくことができないという明白な答えに対してどのような態度をとることができるのか?不完全、不可能、不確定という3つの「不」は人間理性の限界をロジックで導出してしまっている。現代の科学はまだまだ発展途上であり、未知の素粒子や、数学上の未解決問題、遺伝子工学や生化学、脳科学とコンピューターサイエンスの融合など課題は累積しているのが現状であり、この状態で人間に「不可能」なことがあると言われても「わからない」という人も多いだろう。人間の歴史は不可能を可能にしてきた歴史と言える。我々の脳が遺伝子工学などを駆使して飛躍的に能力が増大した場合、現在我々が使用しているロジックが通用しなくなり、限界がなくなる可能性も0%ではない。人類の遠い行く末を考えると頭がクラクラするのは私だけだろうか?