2013年10月22日火曜日

『あっ、エヴァンゲリオンQ見たね』

 死にたいなと思う日々ではあるがなかなか死ねない日が続いている。
 

 
 少しメランコリックな状態のほうがいい。そのほうが気持ちがいいのだ。


 そんな日々を送っているが、この前、エヴァンゲリオンQを鑑賞した。


 私はエヴァについてはそんなに詳しいわけでもなく、また好きな作品でもないが一応ニコニコ動画でアニメ版を全て鑑賞し、映画版も地上波で放送されたものを見ているので話の流れは一応わかっている。


しかし、今回見たQは正直おもしろくなかった。要するに、



『すべて事の発端は碇シンジである


『碇シンジはみんなから嫌われている』


 『碇シンジはトンデモなくバカである』
 

 ことはよくわかった。

 新劇場版は前の2作品の方が私は好きだ。


 ハードルを高く設定したのが原因か、この消化不良をどうすればよいのか困ってしまう作品である。

2013年10月20日日曜日

『憂鬱』

 

 
 憂鬱である。雨はザンザン降る。そして寒い。気分は落ち込む。何もしたくないわけではないが、やはり何もしたくない。一日中寝ていたいとも思うが、寝ていると体力が低下するので軽い筋トレをほぼ毎日実施している。
 

 人間は何もしないで生きていることはできない。どんな人間であろうと何かをしている。こんな「私」でも何かをしている。


 嘘である。全て嘘である。

 私は現在ある種の「無力感」に襲われている。現在抑うつ状態、非常に疲れやすく、何よりも生きる気力、エネルギーというものがなくなってきている。
 メンタルの疲労はフィジカルにもすぐ影響するため非常に困っている。 


 精神的負担を軽減しようと努力はしているものの、無意識化ではやはり精神的な負担があるのだろう。
 それが表面化した時にはもはや手遅れであって、

 端的に言えば「死にたい」のである。
 


 毎朝起きるたびに希死念慮が表出してくるが、やるべきことがたくさんあってなかなか「死」を選択することができないでいる。


生きることに喜びや楽しみを感じなくなった人間は、「生」そのものが苦しく、辛いものである。



人間の体は簡単には死ねないようになっている。死ぬにはそれ相応の「努力」を必要とする。また社会も死ぬことを許してはくれない。全く困ったものである。生きるにも死を選ぶにしても困ったものである。全くこの世の中は生きづらい。


 ずっと生きづらさを感じてはいたが、なんだろう、自分はこの世界に存在しなくてもいいと思う。72億人も人類がいるのだから一人くらいいなくなっても困りはしないだろう。幸い私は国家元首でもなければ、宗教指導者でもなく、また偉い学者でもない。多分、あってもなくてもどちらでもいい「命」だろう。


 時計の針は動き続ける。空間は私の存在を許容するだろうか。


2013年10月15日火曜日

『人間理性の勝利』


 われわれは謎に満ちた世界にいる。まわりに見えるものを理解したいとわれわれは望み、こうたずねる。

 宇宙の本性は何か?宇宙におけるわれわれの地位はなにか、宇宙とわれわれはどこからきたのか?なぜ宇宙はこのようになっているのか?



 このような疑問に答えるために、われわれはなんらかの”世界像”を採用する。平らな地球を支えている無限に積み重なった亀の塔はそのような世界像であり、同じように超弦理論もひとつの世界像である。どちらも宇宙の理論であり、ただ後者は前者にくらべてはるかに数学的で精密であるだけだ。


 どちらにも観測上の証拠が欠けている。地球を背中にのせている巨大な亀を見たものは誰もいない。しかし、超弦を見たものだっていないのである。にもかかわらず、亀説がよい科学理論になりそこねたのは、この説が人間は世界の縁から落ちることがあり得ると予測しているためであった。これが経験と一致することはいまだに確かめられていない。



 バミューダトライアングルで失踪したと見なされる人たちの行方が、これで説明できると判明すれば話は別だが!


 今日まで、科学者はずっと、宇宙は何であるかを説明する新しい理論の展開に心を奪われていて、なぜと問うことができないでいる。一方、なぜを問うことを商売にしている人たち、つまり哲学者は科学理論の進歩についていけないでいる。
 

 18世紀には哲学者は科学を含めた人間の知識の全体を自分たちの持ち場と見なし、宇宙にはじまりがあるか、などといった問題を論じたのだった。



 しかし、19世紀と20世紀には、科学は哲学者、いや少数の専門家以外のだれにとっても、あまりに技術的、数学的になりすぎた。




 哲学者は探求の範囲を大幅に縮小し、今世紀のもっとも有名な哲学者であるウィトゲンシュタインが

「哲学に残された唯一の任務は言語の分析である」

と言うほどになった。アリストテレスからカントに至る哲学の偉大な伝統からの、これはなんという凋落ぶりだろう!


 しかし、もしわれわれが完全な理論を発見すれば、その原理の大筋は少数の科学者だけでなく、あらゆる人にもやがて理解可能となるはずだ。そのときにはわれわれと宇宙が存在しているのはなぜか、という問題の議論に参加できるようになるだろう。もしそれに対する答が見いだせれば、それは人間の理性の究極的な勝利となるだろう。

 なぜなら、そのとき、神の心をわれわれは知るのだから。

2013年10月14日月曜日

『安堂ロイドについて』

 『半澤直樹』のあとにSFドラマがやってきた。


 昨日第一話を見終えたが、私はこのような作品は嫌いではない。寧ろ好きだが、やはり現段階においては賛否両論の評価になっている。


 木村拓哉と柴咲コウが約10ぶりにタッグを組んでやるドラマが「安堂ロイド」である。
10年ぶりの共演とは感じさせないほど若いですね。

人物相関図はこんな感じ

 ラブストーリーとサイエンス・フィクションどちらに重きをおいているのか気になって観た結果は明らかにサイエンス・フィクションの要素が強いということ、全面にSF色を押し出しているということである。五次元プリンタ、アスラシステム?、机の引き出しから転送されてくる安堂ロイドには笑ってしまった。100年後の未来から転送されるシーンはもっとハードSF的要素を強めてもよかったのではと思う。全般的に言えるのは和製「ターミネーター」のような感じに仕上がっているので、小型のワームホールが出現してそこから安堂ロイドが現れる、みたいな演出も面白いのでは。


こんな感じでキムタクも裸で登場したら視聴率アップだろうが事務所がNG出すだろうな。


 日曜9時のドラマ枠にこんなサイエンス・フィクションドラマを持ってきて視聴率がとれるのか非常に心配である。




 純粋なラブストーリーものでも通用するキャスティングにもかかわらず、あえてサイエンス・フィクションの要素を多く盛り込んだその意図を読み取るには時間がかかるであろう。TBSも冒険したなと思うのは私だけであろうか?