2013年11月30日土曜日

『夢をコントロールできた時の幸福感について』



・私は今まで生きていきた中で一度だけ『夢』を『コントロール』した経験がある。夢をコントロール?何を言っているのかよくわからないと思う人も少ないと思うが、実際に経験したことなので簡単ではるが文章にして残しておきたいと思う。
 

 人間はなぜ夢を見るのか?という疑問に答えを出すため有名なところでは精神分析学を作り出したフロイトが「願望充足説」など夢を見ることについて彼なりの説明をし、一応合理的な論理展開をした。


  


 フロイトの弟子であるユングは更に「夢」を個人に起きる現象という枠組みだけで捉えることなく、それを「人類」というさらに大きな枠組みにまで拡大し、人類が普遍的に見る「夢」について考察した。そこには言語や文化、風習、人種や地理的条件など超えたところ、人類固有種としての「夢」についての考察という広範な学問分野にわたっての知識を必要とし、非常に困難な学問領域になった経緯もある。
 

 現代において脳科学や遺伝子工学などフロイトやユングなどが活躍した時代には存在しなかった学問領域が確立され、とくに脳科学の分野においては「夢」は一体なぜ見るのか、盛んに現在も研究されているところである。
 


 夢をなぜ見るのか?私は夢をなぜ見るのかそれ自体に興味はない。今私が興味があるのは「夢をコントロールする」事だけである。経験した人間にしかわからないだろうが、夢をコントロールすることは非常に「気持ちいい」快楽的行為なのである。それはセックスと同じくらい、いやそれ以上に脳内麻薬物質が盛んに分泌されている状態が「夢のコントロール」なのである。
 


 ただ一度だけのコントロール。私の肉体的、精神的コンディションはどのようなものだったなのか、全く覚えていないのが悔やまれる。
 


 断片的に覚えている『記憶』をたどると夢の中での自分の動きは非常にスローであった。とにかく動きにくい、時間と空間、時空の歪み、重力が私の夢の中で大きく影響していた。
 


 最近も夢はよく見る。その時に見る夢はいわばワーム・ホールのようなチューブ状の空間を通って異なる次元の世界に行くことが可能になっている。



 私は現実と夢、言い換えれば幻、幻覚?との境目が時々曖昧になる時がある。我々が生活している時空間は現実だと誰しもが言うだろう。それが常識であり、その考えから逸脱した主張をする人間は異端視される。しかし、私にとってこの「現実」と「夢」がどちらも存在するものであり、そしてどちらも私にとって私が「存在する」世界であることは否定することはできない。
 



 量子力学と脳科学をミックスした大胆な仮設を提唱した英国の数学者ペンローズの考えは学会においては当初否定的な意見が多かったようだが、我々の存在する世界が量子力学的世界像の上にあることは間違いのない事実であり、量子論が描く世界像は常に世界中の人間の「脳」という機関に影響を全く与えていないということを否定することは果たして可能なのだろうか。





 精神世界が好きな人間が量子論的世界観に言及することが多い。古典力学的世界観が我々の日常経験上の延長線上にある世界観描写であるならば、量子論が我々に見せる世界は非日常的なものである。その不思議なものにある種の人は惹かれるものがあるのだろう。
 
 世界の描像は一面的なものではない。

 以上 とりとめのない雑文をここに記す。

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