自然科学の研究の多くが、具体的な技術となって私たちの生活に貢献しているのに比べれば、哲学は実生活には何の役にも立たない。もっともらしい議論を展開して、人を煙に巻くくらいはできるかもしれないが、そんなことをしても、変わり者としてうるさがられ、オタク扱いされるのが関の山。
だったら、哲学は何のためにあるのか?
『哲学には、何もできない』
「何かができる」ということが「眼に見える成果をもたらす」という意味であるなら、「哲学には何もできない」といえる。
しかし、「物事の真理を知ろうとすることが哲学だ」と言うことができるかもしれない。真理を知って何の得があるのか?残念だが何のメリットもない。
ただ、なぜか人間は知りたがる生物であることは確かである。では、「知る」とはなんだろう?
『人間は「知りたがる動物」だ』
「知る」ことを固く言うと、「認識」である。
「認識する」とは、存在しているものについて、それが何なのかを考えること。「認識する」とは、思考してYOUと、私によって思考されているモノとの関係を意味する。ただし、それは「真理を知る」ということではない。
私たちの認識はたいてい「だいたい」である。私たちは自分の友人についてどれだけのことを知っているか?ごくわずかしか知らないだろう。ただしそれが「友情がない」ということにはならない。
存在するモノをくまなく認識する(知る)という意味では、真理はありえない。
どんな認識も、私達の感覚や理性の働きを媒介にして成立している。当然、私たちの感覚器官が、認識に反映することになる。私たちにもう一つの目があったら、世界の風景は全く違ったものに見えるだろう。
どんな認識も、感覚や理性に媒介されているということは、何かをありのままに知ることなどない、ということ。
どんな認識も、絶対の真理ではないが、少しも真理を含んでいない認識も存在しない。妄想や誤謬でない限りは、それなりの真理を含んでいる。
『哲学で養えるのは、クールな目?』
私たちは、太陽を回る地球が本当はどのような運動をしているのか知らない。それでも私達は、地球が太陽の周りを回っていることを知っており、そう認識している。
肉眼には太陽が東の地平線から昇って西に沈んでいくとしか見えなくても、真実は大地のほうが動いているのだと認識する。だからこそ科学の進歩がある。
大事なのは、絶対の真理はありえないという態度をどんな時も忘れないこと。それが「懐疑主義」と言われる態度である。
懐疑主義というと「真理など何もない」と言いきる詭弁と混同されがちだが、それは違う。
真理などない、言い切ってしまえば、その断言が真理だということになる、真の懐疑主義とは「真理など存在しない」と断言するのでなく、「絶対に」と口走る者を決して信用しない態度を保つことである。
認識は、蓄積できる知識とは違って、自分には知らないことがあるとわかった上で、どうすれば「知らないこと」を埋められるかを模索することである。
いつでも認識を深めていく、あるいは積み重ねていく作業こそが哲学だと言えるだろう。
哲学は何かの役には立たないが、あらゆる物事をクールに見る目を養ってくれる。
リストラされずに会社にいることを何より大事なことだと思い込んだり、社会に愛想を尽かして新興宗教にのめりこんだりといった一途な思いこみから、さまざまな悲劇が生まれる。
「あらゆる物事をクールに見る目」とは単にシニカルなポーズを気取ることではない。熱狂から生まれる悲劇を避ける目を養うことが可能なのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿