2013年8月4日日曜日

『私は幽霊を見たことがない』

 

 夏。夏といえば〇〇。この〇〇に何が入るかは人それぞれだと思う。私はこの〇〇に「怖い話」そして「幽霊」を絡めた文章を書いてみようと思う。


 巷間で話されている怪談話や幽霊、あるいは都市伝説の類はとても面白いものだと思う。私は今まで一度も幸か不幸か「幽霊」や「お化け」といったものを見たことがない。
 

 自分が見たことがないからといってその「存在」を否定するということはない。

 まあ、一度は見てみたいと思うができれば「怖くない」かたちで出現してほしいものである。


 顔から血が出ている、明らかに「異形」なるものにはかなりの抵抗感(ほとんどの人がそうだと思うが)を持っている。
 ある日隣に「幽霊」なるものがおり、普通に世間話でもして終わりみたいな関係が理想だが、世間の「幽霊事情」はそう簡単ではなくまさしく複雑怪奇なるものが常である。
 

 私は元来オカルトや神秘的現象などに強く惹かれていた人間である。しかし、「科学」というもの、あるいはもっと大きく言えば「知識」が増えるのと同時にオカルトや神秘的現象に合理的な説明、乃至 論理的に破綻していない説明というものを自分の中で作り上げることができた。その過程で多くの超常現象がいわゆる「インチキ」であったり、「トリック」をつかったもの、基本的な科学知識の不足による誤認などがほとんどだという結論に至っている。


 多くの科学者はいわゆる「非科学的」なものを忌み嫌うかもしれない。これは私の科学者に対するステレオタイプな見方から発生した考えであって、データを採集したわけではない。


 しかし、今でこそ「超心理学」なる学問分野が存在するが一昔前は科学的考察の対象にすらならかったのも事実である。
 

 人は未知なるもの、未知の現象に対して理にかなった説明を求める。なぜなら人はその理性によって理解できないものに対して恐怖を抱くからである。それは我々人類が「生物」であるかぎり抱くものである。恐怖は極めて原始的なものであるが、大脳新皮質が著しく発達した人間の脳も爬虫類などの他の生物と共通した脳の部位、そして働きを持っているかぎり、恐怖そのものを排除することは不可能に近い。
 

 人間の感情表現のひとつとして「恐怖」は存在するが、その根本は人間の脳の構造にあることを認識してもらいたい。
 話が脱線したので元に戻すが、私はほとんどのオカルト、超常現象の話に自分なりの「解釈」を加えて受容しているわけだが、どうしても合理的、科学的な説明が難しいケースも多々ある。


 そういったものに出くわした時の私の対応が

「うん、そうだな」

である。

 つまり、そのような未知なるものを積極的に認めてしまうということである。これは科学者、技術者にとってはそう簡単に受け入れることは出来ないと思うが、私はこういう考え方もありだと思う。端的に言えば「この広い世界、神秘的なもの、未知のものがあったほうがおもしろいよね」というスタンスである。
  

 この100年間で科学技術が発達し人類の生活は便利になりその質も昔と比較したら向上したと考えてよいだろう。
 豊かで便利になった生活を送るなかで人間というものは不思議なもので非科学的、非論理、非合理的なるものに惹かれるのも事実である。
 

 すべての「なぜ」に科学は答えることはできない。科学は「どのように」という問いには答えることは可能だが、根本的な問い「なぜ」に対しては明確な答えを出すことはできない。科学は大変多くの分野において「なぜ」という問いに答えることができるようになったが、100年、200年経過しても根本的な「なぜ」に対する答えは出ないだろう。
 怖い話、幽霊などは大変興味のある分野である。書籍を通じてよりもこういった類の話はインターネットで知る事が多くなった。時代の変化とともに、怖い話、幽霊の話もその時代に合わせたスタイルのなっていく。
 

 今はネット世界密接にコネクトした状態での話が多いが、これらの話の「原型」といったものは数百年、あるいは数千年前のものと比較して変わることはないのである。つまり、未知なるものへの恐怖、暗いものへの恐怖、それらはどの時代、どの地域でも共通項として存在するものであると私は思うのだ。



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